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2016年10月の8件の記事

2016年10月27日 (木)

もしかして俺はこの世に存在していなかった?

昨日は10月下旬にしては、小春日和の穏やかな日でしたね。
そんな日は、ちょっと遠出です。

電車に揺られて約2時間半。
茨城県のつくば市役所まで行ってきました。

相続手続きのための書類集めです。
相続人を特定するためには、被相続人の出生時から死亡時までの戸籍謄本(抄本)が必要がなわけです。
出生時から死亡時までの連続した戸籍謄本が必要なのは、隠し子の存在が無いかどうかを調べるためですね。

母は茨城県で生まれで21歳の時に父と結婚、その後横浜に移り住んで現在に至ります。
つくば市に於いては少なくとも出生時の戸籍謄本(抄本)と婚姻時の戸籍謄本(抄本)を取得する必要があります。

本籍地を何度も変えている人や、結婚離婚を繰り返している人は、書類集めが大変です。
それでも同一地域であれば、まだ良いですが、あっちこっちに移動していると、全部の戸籍謄本を集めるのは結構厄介ですからね。

幸いに母の場合は、つくば市では出生時と結婚時の2部の取得で済みました。
その戸籍謄本の記載内容をまじまじと眺めます。


そこには驚愕の記載が・・・。w

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母の事を記載してある欄を見ていると、「本籍ニ於テ出生 父○○届出 昭和○年○月○日受附入籍」と書かれているのが読み取れます。
これは特に問題ではありません。

驚愕の記載とは、この一文の前にある括弧書きでの記載です。
昭和の初めの古い戸籍謄本ですから、すべて手書きですから、正確には読み取れません。
でも、はっきり読み取れるのが
「死亡」の二文字の記載。
(昭和○年○月○日 本籍ニ於テ死亡 ○◆※→一部読み取れない。)
年月日は母の誕生日です。
これって、母は出生時に一度死んでたんじゃないの?
そして息を吹き返した?
あくまで推測ですけどね。

もし死産のままだったとしたら、俺はこの世に存在していなかったってことだよね。

初めて知った事実に驚きを隠せませんが、それ以上に母の出生時に何が有ったのか?
興味が尽きません。
だけど、本当のことを知っている人は、もう誰もいないでしょう。
もう少し早く知っていたならば、母に直接聞けたのにね。

他にも戸籍謄本では、興味深いことが読み取れました。
祖父と祖母は「出来ちゃった婚だったんじゃね?」とかね。
だって婚姻による入籍日が、長女(母の姉)が生まれた日の前日なんだよね。w


他にもいろいろ・・・?
聞きたいことが山ほどあります。

すべてに於いて事実は確認しようがありませんが、自分のルーツを知る意味においても、戸籍謄本を探ることって、案外面白いかも・・・。

今まであまり興味は無かったけど、父方も含めて少し自分のルーツを探ってみることにします。
そこにはいろいろな人間模様があったでしょうからね。
また一つ楽しみが出来ました。

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2016年10月23日 (日)

どっちがいいんだろうか?

昨日は、中学時代の友人が来てくれました。
母親に線香をあげてもらった後、昼食を一緒にってことで近くのファミレスへ。

そこでの話しのメインはやっぱりお互いの母親のこと。

自分の母のことは、このブログで書いていたとおり、4月に倒れるまでは普通に自立して生活していました。
それが、突然倒れて入院。
そして手術後には入院前とは別人のようになってしまって、約半年後に息を引き取りました。
怒涛の半年間でした。

友人の母親は、現在要介護2だそうです。
要介護2というのは、日常動作の低下により日常生活に介護が必要な状態です。

友人は私と同じく独身、兄弟姉妹は二人いますが、友人は長男なので母親と同居中。
働きながら母親の介護をしています。

彼の一番の気がかりなことは、認知症の症状が徐々に悪化しているんだとか。
特に食べ物には要注意。
好きな物は、どんどん食べたり飲んだりしてしまうらしい。
1週間分の用意をしていたヤクルトを一晩で飲み干してしまったりね。
だから食料は別に隠しておいて、小間目に冷蔵庫をチェックして無くなったら足す。
これの繰り返しだそうです。


それと外した入れ歯がどこに行ったかわからなくなってしまうことも頻繁らしい。
やかんに入っていたり、ゴミ箱に中だったり・・・。

それより何より一番悲しいのは、息子であることがわからなくなってきていることだとか。
お菓子を出してきて「これ、あなたのお子さんに持っていってあげて。」とか言うんだって。
独身の息子に対してね。

「あなたの出身はどこですか?」って聞かれて、「大分だよ。」って友人が答えたら「あら、私と一緒ですね。」って、敬語で言われたりとか・・・。

何度も何度もあるらしい。
これもまたきついよね。

認知症は、症状を遅らすことは出来るらしいんですが、回復は見込めない。
だからこれから、更に悪化して行く。
友人は、もし下の世話が必要になったりしたら、施設に預けるしか無いと割り切っているが、それまでにどんな事が起こるのか?
想像したら恐ろしい。

だけど、友人は長期に渡って介護は必要だけど母親がそばにいる。
充分な会話は出来なくても、生きている。
自分の場合は、まだまだ大丈夫だと思っていたのに、あっと言う間に彼の母親の状態を抜き去ってしまい、そして死んでしまった。

どっちが楽か?って言われれば断然に自分の方が楽なのはわかっている。
たった半年の苦労で済んだからね。

でも・・・。
自分は母親と話をすることはもう出来ない。
それはそれで、かなり寂しい。


どっちがいいのか?なんて具問でした。
これって、単純では無いんだよな~。
心の持ちようで、どっちにも変わってしまうから。

あれ?なんか最近、いい歳こいて女々しいことばかり書いているなぁ~。w

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2016年10月19日 (水)

役所に銀行に・・・奔走中!

母が亡くなって約2週間が経過。
そろそろいろいろな手続きに、動き出さないと・・・。
放って置いても誰もやってくれないからね。

そんなわけで、昨日はようやく重い腰を上げて、役所と銀行に行ってきました。
役所は死亡関連の手続き、銀行は相続手続きのためです。

この相続ってのが厄介で、巷では相続財産をめぐって骨肉の争いが繰り広げられます。w
前の仕事でも何度もそんな修羅場を見てきました。
「相続」じゃなくて「争続」とは、良く言ったもんです。

だから、ご多分に漏れず、我が家も・・・。

って言いたいところなんですが、我が家はいたって平和です。
母の財産は全部兄にくれてやります。
そして、その手続きは全部私がしてあげます。
なんて優しい弟なんだろう。
誰も言ってくれないので自画自賛です、はい。w

それもこれも、たいした財産が無いので言えることなんですけどね。
資産がたんまりあったら、相続税やら悩みも多いんでしょうが、我が家はそんな心配もありません。
だから争いなどは、起こりません。
貧乏人で良かったな~。(負け惜しみ?w)


まずは銀行へ。
母が年金受け取りなどで使用していたのは二つの銀行だけ。
その銀行を渡り歩きました。
銀行に母の死を知らせると、預金が凍結されてしまいますが、我が家は心配無用です。
そう、ほんのわずかな預金しか無いからね、凍結されたってどうってこと無い。
それでも放って置くわけにはいかないから、手続きはしないとね。
預金を下ろせるようになるまでに、なんだかんだ1ヶ月くらいはかかってしまいそうです。
とりあえず、母の出生地(茨城)で戸籍(除籍謄本や原戸籍)を集めて来なければ・・・。

次は役所へ。
まずは戸籍の確認。
母の死亡届は葬儀社が手続きしてくれたので、実際に除籍がされているかの確認です。
しっかり除籍されていました。

国民健康保険と介護保険の喪失手続きと後期高齢者医療の資格喪失手続きも必要です。
その際、横浜市の場合は葬祭費の一部として5万円が給付されるので、その手続きも併せて済ませました。
これは行政によって違いがあると思います。
横浜市のこの額が多いのか少ないのかはわかりませんが、頂けるものは頂きます。

そして高齢者のサービスを受けていたので、その廃止届を・・・。
実際は、サービスを受ける前に亡くなってしまいました。
紙オムツの支給サービスを受ける予定だったんですけどね。
それでも廃止届は必要でした。

あとは、年金受給の停止手続きですが、これは年金事務所での手続きになるので後廻し。

銀行手続きにしても相続手続きにしても、まだ始めたばかり。
だけど適当に気を紛らす事も出来るし、まぁ~のんびりやりますわ。

すでにリタイアした身、カネは無いけど、時間だけはたっぷりあるからね。

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2016年10月17日 (月)

なんなんだ?この喪失感は・・・。

母が亡くなって、ちょうど2週間。
この2週間は葬儀やら寺との調整やらと、あまり寂しさを感じることも無く、日々慌ただしく過ごしてきました。
ただ、ここに来て言いようも無いほどの喪失感に苛まれています。
なんなんだろう、この感覚は?

父親を亡くした時も、会社を辞めた時も、ここまでの喪失感は生まれませんでした。
寂しさの度合いが違うんです。
ふとした時に、ここ数カ月の出来事を思い出しては、恥ずかしながら涙が溢れます。
いい歳してね。w


こんなに泣いたのも、我が人生において初めてのことです。

これって、いったいどういうこと?
冷静になって考えています。

今まで自分の人生に於いて母の存在が大きかったとも思っていません。
一人暮らしが長かったし、何カ月も母と話をしなくても、どうってこと無かったからね。

それが母が倒れてから、ずっと母に寄り添ってきた。
入院中は1日も欠かさずに病院に出向き、面会時間中はずっと母のそばにいた。
まともな会話は出来なくても、母には感情があった。
たくさんの笑顔を見せてくれた。
退院後はそれが24時間に変わり、自分には出来ないと思っていた下の世話までした。

我が58年間の人生に於いて、こんなにも母に寄り添い、母のことを思い考えたことは無かった。
たった半年間の出来事なのに、それはとでも濃密な時間でした。

その濃密な時間を過ごしたことが、今の喪失感を増長しているんだろうな、きっと。


それもこれも、自分が会社をリタイアしていたから出来たこと。
もし会社勤めをしていたら、ここまで母に向き合うことは出来なかったはずです。

そして、もし会社勤めをしていたら、忌引き休暇も終わって、普通に仕事を始めていたことでしょう。

仕事をしていると、悲しみは半減するかもしれませんが、思い出も半減してしまう。
だったら、この喪失感にどっぷり嵌ってみようじゃないか。
こんな想いは、滅多に味わえないだろうからね。

そして一息ついたら、バンコクで再出発だ!!!!

だけど・・・。
タイも今は国王を亡くした喪失感に包まれているだろうなぁ~。
なんか複雑。

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2016年10月15日 (土)

葬儀は家族葬で

母の死を医師に確認してもらったあとは、そうそう悲しんでばかりはいられません。
すぐに葬儀の準備をしなくてはなりません。

まずは、どこの葬儀社に頼み、どんな規模の葬儀にするか?を決める必要があります。

近年(私が在職中の晩年)は、会社の同僚だちの親族の葬儀は「家族葬」が主流でした。
この家族葬が一般的になって、葬儀の出席も極端に少なくなりましたね。

ご多分に漏れず、母の葬儀も「家族葬」で済ませました。

数年前、家の近くに家族葬を中心に執り行う葬祭場が出来、その頃母がそこを下見したそうです。
そして、母は自分が死んだらそこで葬儀をしてほしい・・・。
そう兄に伝えていたそうです。

そこは家から2~3分の場所にある、とても小さな葬祭場です。
パンフレットを見ても、参列可能人数は70席だとか。
どうみても一般葬は出来そうにありません。

だけど私にとっては願ったり叶ったり・・・。
自分の元職場に母の葬儀を知らせる必要もないし、義理で来てくれる方たちを排除できますからね。

だけど、母の知人たちはどうするの?
どう伝えたらいいのか、やっぱり悩みました。
でも母の交友関係まで詳しく知らないし、どのくらいの人数が参列するのかも定かでは無いし・・・ってことです。


母の死去は、10月3日です。
当日、母が生前に言ってた葬儀社にすぐに声をかけて相談しました。
まずは、いつ葬儀を執り行うか?ですが、これは火葬場とお寺の僧侶の都合で決まってきます。
葬儀社の担当者は、こちらからの連絡で、すぐに火葬場は仮押さえしてくれました。
10月8日なら可能らしい。
そして、菩提寺の住職へも連絡し、通夜と葬儀の都合を相談し、10月7日に通夜、10月8日に葬儀を執り行うことで確定。

日程が確定したら、あとはどんな葬儀にするか・・・です。
先の悩み、親族だけの完全なる家族葬にするか?母の友人知人たちにも声をかけて、参列してもらうか?決めなくてはなりません。

参列人数がどう膨らむかわからない状態だと、いろいろ面倒くさい。
通夜振舞いの人数の想定だとか、手伝いの人の確保とか、いろいろね。

それを解決してくれたのが、葬儀社からの提案でした。
死去から通夜まで、4日間ほどあります。
その4日間に母の友人・知人たちには、お別れをしてもらったらどうかと・・・。
その間、母の遺体の安置も葬儀社でしてくれると・・・。

有難くその提案に乗っからさせていただきました。
母の死去の翌日に、安置場所を自宅から葬儀社に移し、10月5日から10月7日の3日間を、母とのお別れ日として母の友人にたちに知らせました。
来てくれる方は、もちろん平服でOK。
それと香典、弔電の類はご遠慮させていただく旨を添えてです。


驚くことに、その間、母にお別れをしに来てくれた方は80人近くになりました。
母の友人数名に、知らせただけなのに・・・。
口コミと言うのは恐ろしいものですね。
そこまでの人が来てくれるとは思ってもいませんでしたからね。

この3日間、毎日ご焼香に来てくれた方もいましたし、私たちも母の友人や知人とじっくり母の在りし日の話を聞くことが出来ました。
「母は、地元の人に愛されていたんだな~。」
つくづくそれを実感させていただけました。

そして通夜・葬儀は、親族だけでしめやかに執り行えました。

もし葬儀社が「母の友人たちのために、お別れ会をしましょう・・・。」
この提案が無かったら、ここまで満足な葬儀は執り行えなかったんじゃないかな?

生前、母が話していた「あの葬儀社で葬儀をしてね。」
その言葉通りにして良かった。
たくさんの方と最後のお別れ出来て、母もきっと満足してくれたことでしょう。
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2016年10月13日 (木)

へぇ~、人ってこうやって死んでいくんだぁ~。

タイのプミポン国王の容体が不安定になっているらしい。
医師団による懸命な治療が続いているとのこと。
みんな回復を祈念している。
それでも国王は「生きたい!」と思っているのか?
「もう逝かせてくれ!」って思ってるんじゃないのか?

回復を願いながらも、母を看取ったばかりの自分にとっては、ちょっと複雑な心境です。

母の場合。
自宅に連れてきた時から治療はしない。
そう決めた。
死を覚悟して、それを受け入れた。
でも少しでも長く生きてほしい・・・。
そこには母の気持ちなど無く、見守る側の勝手な思い入れ。
長引けば長引くほど、お互い苦しむことはわかっているのにね。


平成28年10月3日 午前9時00分 死亡
直接死因 クモ膜下出血 
その原因 前交通動脈瘤破裂
発病から死亡までの期間 5ヶ月


これが、死亡診断書に書かれた内容です。

初めての看取り。
実際、どんな感じで人は死にゆくのか?
事前にレクチャーを受けていても、やっぱり不安はありました。
果たして冷静に看取れるのか?
ジタバタしてしまうのか?


その顛末を要約するとこんな感じか・・・。
亡くなる前日の夜のこと。
いつもより呼吸が荒くなってきた。
とりあえず、契約していた24時間看護ステーションに連絡。
返って来た答えは、
「しばらく様子をみてください。」

そう言われると思っていた。
何もしない・・・。
それが上手に死なせるためには必要なことらしいから・・・。

慌てて救急車でも呼ぼうものなら、母を蘇生させることが出来るかもしれないけど、より苦しませる可能性も否定できない。
在宅で看取る覚悟を決めたのだから、ジタバタしてもしょうがない。
自分で自分に言い聞かせます。

今夜が山か?
看取りのシーンでよく聞く言葉が頭を過ります。

いかにも苦しそうな呼吸をしていますが、当人はそんなに苦しくないらしい。
それって本当か?どう見ても苦しそうだよ・・・。
見ていて辛い・・・。
「苦しくないよね!苦しくないよね!」そんな軽薄な言葉しか母に投げかけられません。

そんな様子が一晩中続きました。

そして朝(AM5時30分)のオムツチェック。
亡くなる前は尿量が減るらしいが、この時はたっぷりと尿は出ていました。
あれ?まだ大丈夫?そう思ったのですが・・・。

体温は38.6度(熱が高いな~)
脈拍は120/分(脈も速くなってきた~)
目は半開きで、瞬きはしていない。
昏睡状態か?
手足は冷たくなってきて、足はチアノーゼ(紫色に変色)の症状を確認。


痰が絡むのか?時たま喉がゼーゼーしています。
そして胸、腹、肩を使って大きく呼吸をしているのがわかります。

AM7時頃 呼吸が止まりました。
死んだ?と、思ったら10秒くらいして、大きく息をして呼吸が復活。

そしてそれからAM8時頃まで、呼吸停止、復活を5分置き位に繰り返しました。
自分は黙って、その様子を見守るだけです。
ここで大きな声で「母さん!」なんて叫ぼうものなら、折角、三途の川を渡ろうとしているのに、呼び戻しかねないからね。
苦しい様子を見るのはもうたくさん!。
だから気持ちは「もう逝っていいよ!」でした。

AM8時頃からは、穏やかな呼吸に変化。
持ち直したのか?
そう思った矢先に、下顎が外れるような仕草を2~3度繰り返し「ウッ!」と言う音を残して完全に呼吸が止まり、それと同時に半開きだった目が、完全に閉じたのでした。

10月3日、午前8時21分のことでした。

それにしても人の命なんて・・・儚いね~。


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2016年10月11日 (火)

なぜ自宅で看取ったのか?

今の時代、約8割の方が病院で亡くなると言う。
一方で、約8割の方は自宅で死にたいんだとか。

さて我が家はどうする?
終末期に入れば、どこでどう看取るかの決断が必要なわけです。

遡って8月中旬のこと、主治医との打合せがありました。
その時の母の状態は、意識はしっかりしている(ただし相変わらず自分のおかれている状況はわかっていない)。
四肢の動きも悪くない。
血圧などのバイタルも上々。
ただし、食事はほとんど摂れないため栄養は点滴頼み(ただし、血管が細く脆いので、この頃から皮下点滴に変わった)。


主治医からの話は、日に日にリハビリや食事摂取がすすまない状況、食事を摂っても嘔吐してしまう現状を懸念して、まずは胃カメラによる検査をしましょうか?の提案でした。
「食事が摂れない原因をはっきりさせましょう。」ってことですね。
その結果によって、胃ろうを造設するとかを判断すればいい・・・。

こちらの返答は「ちょっと考えさせてくれ!」です。
でも考える時間は、長くありません。
本当は母の意向が一番なんだけど、母に判断能力はありませんから、家族が決める必要があるわけです。

ここで私と兄の考え方は違っていました。
私はこれ以上母を苦しめたくないので何もさせたくない考え。
兄は検査をしてはっきりさせた方が良いという考え。

喧々諤々、丁々発止。
兄とは議論を重ねました。

私の一貫した主張は「胃カメラの先に何があるの?」ってこと。
胃ろうの造設?胃の手術?
そもそも胃が悪いかどうかも、わからない状況だからね。
それに今の母さん、薬さえ飲めないんだよ!
仮に原因がわかったとしても、更なる手術とか胃ろうの造設は、母さんを苦しめるだけだってことを、しきりに兄に訴えました。


兄は医者が検査をした方が良いって言うんだから、検査をするのが正しいと信じ込んでいる。
何も手立てをせずに、放置は出来ないという考えです。
そして「お前は冷酷だ!」とも言われました。

元々、兄も母を苦しめることだけはしたくないってことには賛成だったはずだったんだけど、この後に及んで、気持ちが揺らいでいたんですね。
それも仕方のないこと。
端から延命措置はしないって決めていた自分でさえ、悩みましたからね。
どっちが正解かも知る由がありません。


最終的には、兄も私の考えを理解してくれて何もしない決断を下したわけですが、それはそれは難しい選択でした。
治る可能性を排除してしまったわけですからね。

胃カメラの検査はしない。
そんな決断をくだしたら、もう病院にいられる理由が無くなってしまいました。
入院していた病棟はリハビリ病棟。
治療病棟からリハビリ病棟に移って、まもなく3ヶ月が経過する頃でした。


次の選択は、別の病院に移るか?自宅で介護するか?です。
老人ホームなどの施設に移る選択は、ありませんでした。
点滴をしている状態のままでは、受け入れ先が少ないみたいです。

別の病院に移ったところで、治療をするわけではありません。
あくまで点滴だけで、その時を待つだけです。

それならば、一度自宅に帰らせてあげたい・・・。
ここは、兄と意見が一致しました。

自宅で介護するのは容易では無いことも承知の上です。
オムツ交換や食事の提供、24時間介護です。
もちろん介護保険によるサービスを使いながらですが、果たして自分たちで出来るのか?

周りの方たちからは、反対もありました。
大変だから止めなさいと・・・。

だけど、私たちには一縷の望みがありました。
家に帰ることで、いろいろ思い出してくれるんじゃないかと・・・。
食事も摂れるようになるんじゃないかと・・・。

結果、そんな思いも空しく、自宅に戻って約2週間で息を引き取ることになってしまいましたが、自宅に戻った時、母は笑顔を見せてくれました。
母の友人たちも、訪ねてくれました。
「わかる?」の問いかけにも「わかるよ~。」って返事をしていました。

毎日6回のオムツ交換は、やっぱり大変だったし、食べることは出来なくてもちゃんと食事の準備はしなくちゃならないし、食べさせたら嘔吐をしてしまうのは入院していた時と変わらなかったけどね。

たった2週間で逝ってしまったのは、母の最期の気遣いだったような気がしています。
これ以上、迷惑をかけたく無いというね。

たった2週間、されど2週間。
私たち家族と母の友人たちは、それぞれに母と向き合いました。
長くも無く短くも無く・・・。
それはとても濃密な時間で、それぞれが納得のいく2週間だったんじゃないかな?

もし転院していたら、最後は管に繋がれ、血圧や脈拍や酸素量がピッピッピッと表示され、ひときわ大きなピーの音で、「ご臨終です。」の言葉を聞いていたことでしょう。
テレビや映画でよくあるシーンですね。

自宅で看取る時は、そんなシチェーションはありません。
医者も付き添ってはいません。
いつ事切れるかもわかりませんからね。

それはいつもと同じ朝でした。
母の呼吸が荒いことを除いては・・・ね。

機械音では無く、庭から聞こえる小鳥のさえずりと、外からは学校に向かう子供たちの元気な声。
そんな自然な音を聞きながら母は逝きました。

83歳の生涯、お疲れ様でした。
私は上手に看取ることが出来たでしょうか?
どのくらい苦しかったですか?

まだまだ感傷に浸っています。

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2016年10月 9日 (日)

自宅で看取りました

約3ヶ月振りの更新です。
この間も何度も記事を書いてはいたものの、アップする気持ちになれず、放置してしまいました。
ゴメンナサイ

何があったかと言うと、やっぱり母のことです。
4月中旬にクモ膜下出血で入院、その後肺炎を患い、それでも回復の兆しを見せていたのは、今までブログで書いたとおりです。

ただ、その後は相変わらず食事が満足に摂れず、栄養は点滴に頼らなければならない状態が続き、自分の頭の中では「どう上手に逝かせて上げられるか?」が渦巻いていました。
もちろん食事が摂れなくても、延命させる方法は今の医療では可能です。

少しでも長く生きてもらう処置をすべきか?
いろいろ悩みましたけど、自分の出した答えは・・・。

「最後は住み慣れた自宅で看取ってやろう!!!」です。

紆余曲折ありましたが自宅で介護することを決めて、9月20日に母を退院させました。
そして自宅に戻り約2週間後の10月3日に母は息を引き取りました。
それはそれは安らかな死でした。

死にゆく人を見届けるのは、我が人生58年間に於いて初めての経験でしたが、上手に看取ることが出来たと思います。


病院にいれば、まだ生存していたかも知れませんが、「これで良かったんだ!!!!」そんな満足感でいっぱいです。

昨日、無事に葬儀も済ませました。
じばらくは母さんとの思い出に浸りながら、各種手続きに奔走することになりますが、それらが終わったら、こんどは自分のことに走り出すことにします。

そう・・・。
「待ってろよ!バンコク」です。

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